エンクレストマンションが展開する福岡市は中世からの商都「博多」と
近世(江戸時代以降)以来の武家町「福岡」を擁する双子都市として発展しました。
(子)
「父上、今日はアクロス福岡の北側にある水鏡天満宮に参りましょう。」
(父)
「水鏡天満宮・・・・とな?」
(子)
「はっ。我等父子と同じく国を背負って立った国士の足跡が残る場所でございますぞ!」
(父)
「うむ、ワシはともかく長政が国を背負って立つ程の男児かについては疑問じゃのう・・・・。たとえ息子の評価であっても、甘やかさぬのがワシのポリシーなのじゃ。」
(子)
「父上の子として生を受けて数十年、私は父上の愛情を感じたことがないような・・・・。」
(父)
「・・・・。」
(子)
「まあ、それは良いとして。ここで質問でございます。父上が推す平安時代最高の政治家とはどなたでございましょう?」
(父)
「うむむ。それはズバリ通称六波羅入道、太政大臣『平清盛』公であろうな。別にワシが『永遠の文学少年』で『平家物語』の大ファンだからという訳ではないぞ。清盛公が現実を見据えたリーダーとしての資質に富み、日宋貿易に見られるような優れた経済観念を持っていたことに敬服しているのじゃ。西国を拠点に文化と商業を振興させた清盛公は長政にとっても立派なお手本になるはずじゃ。それにな、ワシは平家の人々の生き方が好きなんじゃよ。」
(子)
「左様ですな。しかし、父上は『文学少年』というよりも『文学中年』か『文学晩年』かと・・・・。」
(父)
「何じゃと!」
(子)
「も、申し訳ございません。しかし、私も平家の人々の生き様に共感しておりますぞ。幼い安徳天皇を『波の下にも都がございます』と慰めて共に壇ノ浦の海に飛び込んだ平時子様(通称二位の尼、平清盛夫人)、滅び行く平家を最後までまとめ続けた知勇兼備の名将・平知盛公(平清盛の四男)、優れた武勇を誇り、敵方である源頼朝公でさえも助命を望んだ平重衡公(平清盛の五男)・・・・。」
(父)
「それらの人々が仲間割れせずに、滅亡の瞬間まで平家の繁栄と存続の為に心を一つにしていたこと自体が素晴らしいとワシは思うぞ。源頼朝公も立派な方だとは思うが、源氏のように子が父を斬り、兄が弟を殺すような行為だけは受け入れたくないものよ。」
(子)
「確かに。では、父上が考える平安時代最高の文化人は?」
(父)
「でへへ・・・・。清少納言や紫式部かのう。ワシは生まれつきのインテリ故、幾つになってもそういう知的な女子に弱いんじゃよ・・・・。で、ワシは水鏡天満宮で清盛公と今後の東アジア戦略について会談を開くか?それとも、清少納言殿や紫式部殿達と連歌の会でも催したら良いかのう?」
(子)
「父上がさほどに想像力豊かとは存じませんでした・・・・。残念ながら、いずれも違いまする・・・・。」
(父)
「ガーン・・・・。」
(子)
「この長政が推す平安時代最大の政治家・文化人とは菅原道真公でござります。」
(父)
「ほう?」
(子)
「天満宮とは、そもそも天神様を祭った神社のことで、福岡市中央区天神の由来もこの水鏡天満宮に因んでおります。」
(父)
「長政よ、今日はよく勉強しておるのう。ついでにいうと、天神様とは雷神様のことじゃ。」
(子)
「太宰府天満宮も雷神、即ち菅原道真公に由来する神社でございますが、水鏡天満宮もまた菅原道真公に因んでおりまする。道真公のプロフィールについては、父上の方が詳しいかと・・・・。」
(父)
「うむ。道真公は代々学者の家に生まれ宇多天皇の信任を得て右大臣にまで昇進された。左大臣・右大臣は現在の宰相(首相)クラスであるから、大変な出世じゃのう。政治上の功績としては、当時の正式な歴史書である『日本三代実録』の編纂を行った他、中国大陸の唐帝国が衰退していることから『遣唐使』派遣の中止を提唱したのも道真公じゃ。しかし、基本的には天皇の権限を強化する思想の道真公は藤原時平等の有力貴族の反発を買い、謀反を企てた罪を着せられて大宰府の長官代理に左遷され、同地で亡くなられた。その後、ライバル藤原時平や皇太子が相次いで病死し、天皇が政務を行う清涼殿が落雷を受けたことから、道真公は雷神であるとされ、その怨念を鎮める為に九州・太宰府天満宮をはじめとする各地の天満宮で祭られることとなった。後世の人々は道真公が優れた学者であったところから、天満宮は学問の神様として崇敬されるようになった・・・と、まあこんなところかのう。」
(子)
「さすがは父上。この水鏡天満宮は、大宰府へ向かう道真公が福岡市中央区今泉の地で水鏡(水面に自らの姿を映す)し、憔悴した自らの姿を嘆いたことに因んで元々は今泉の地にございました。それを私が現在の地に移したのでございます。」
(父)
「優秀な人材は常に妬まれ、反発の対象になるものよ。国家を担う宰相となれば、周囲の妬みやなお同じ優秀な人材として、ワシは道真公の末路に深く同情するものがあるぞ・・・・。」
(子)
「また始まった・・・・。しかし、父上。道真公がこの福岡の地に足跡を残されたことで、福岡の人々が学問を愛し、この地より優秀な人材を輩出することが出来れば、長政にとってはそれ以上にありがたいことはございませんぞ。」
(父)
「長政よ・・・・。ワシほどではないにしても、そなたも弁舌の腕が立つようになったのう。少々驚いたぞ・・・・。」
(子)
「ハハッ。ありがとうございます。さあ、折角ですから、お参りを致しましょう。」
(父)
「うむ、そうじゃのう・・・・。やや?この見事な額の文字は?」
(子)
「実に達筆でございましょう?何を隠そう、この額の文字は1936年に第32代内閣総理大臣に就任した廣田弘毅の筆になるものです。初めての福岡出身の内閣総理大臣であり、明治〜昭和期を通じて唯一の福岡出身の首相です。」
(父)
「なるほど。彼もまた、国家を担う宰相であったのじゃな。それにしても、水鏡天満宮のように歴代の宰相の魂がこもった神社も珍しいのう。」
(子)
「はい。廣田弘毅は外交官出身であり、戦争の気配が色濃くなってきた時期に首相になりましが、予算等の面で軍部の主張を受け入れねばならない等、政情は安定せず、1年足らずで首相を退くことになりました。その後も外相等として活躍しましたが、結果的に我国は米国等の連合国との戦いに敗れ、廣田自身も戦争犯罪人として逮捕されてしまいました。彼は法廷で一言も自己弁護を行わず、軍人ではない文官としては唯一A級戦犯として処刑されました。」
(父)
「潔いが、実に気の毒じゃのう。」
(子)
「全くでございます。廣田弘毅の妻は、夫の助命を願って自殺し、全国で数十万人が減刑の署名を行ったそうです。非常に難しい問題でございますが、戦後永く首相を務めた吉田茂とは大の親友であり、廣田の首相就任を説得したのが吉田茂であったことを考えると、矛盾を感じまするなあ・・・・。」
(父)
「道真公と廣田弘毅・・・・。今日は二人の宰相の生き様に触れることが出来たが、不遇な御両名に対して我等が報いてやれることが一つあるぞ・・・・。」
(子)
「何でございましょう?」
(父)
「福岡の歴史について案内し、より福岡の名前を世に広めることじゃ。」
(子)
「全くそのとおりでございますな・・・・。明日からも頑張りましょうぞ!」
(父)
「それにしても・・・・。」
(子)
「???」
(父)
「ワシも長政をもっと天満宮に連れて行っておけば良かったわい。」
(子)
「それはどういう意味で・・・・?」
[続く]