其の弐 〜一番の功労者なのに・・・・!〜

2009 年 5 月 24 日

(父)
「さて、荒木村重の摂津国有岡城・別所長治の播磨国三木城・波多野秀治の丹波国(京都府)八上城が陥落すると、秀吉様の率いる織田軍は強敵毛利氏が治める中国方面へと駒を進めていったのじゃ。相変わらずワシは冴えていてのう、因幡(鳥取県)鳥取城なぞは現地の米を高値で買い占めた上で兵糧攻めにしたのじゃ。鳥取城の連中は自分達の兵糧が高値で売れたと喜んでいたところを織田軍に包囲されてしまい、進退窮まって降参してきおったわい。米相場を利用して敵を兵糧攻めする策を考えついたのは、恐らくワシが初めてじゃ。」
(子)
「今度も父上の自慢話でスタートですな。そしてその後、有名な備中国(兵庫県西部)高松城を秀吉様が水攻めになされた?」
(父)
「うむ、またもや秀吉様得意の兵糧攻めであったが、もともと沼地や湿地に囲まれて攻めにくいという高松城の特徴を逆手にとり、大規模な堤防工事を行って水攻めとしたのが今までと違っておった。城は水に囲まれて人っ子一人通れぬ有様であったわい。じゃが、城を守る毛利家の清水宗治はなかなかの名将で、水に囲まれて食料が不足した位では簡単に降伏しなかった。それでも、あと数日持ち堪えられるかどうかという日になって大事件が起こったのじゃ。」
(子)
「信長公が明智光秀に本能寺で討たれたのですな。」
(父)
「その通り。そして、その明智光秀からの使いが捕えられて秀吉様の陣に連れて来られたのじゃ。」
(子)
「秀吉様は何と?」
(父)
「取り乱して泣いておられた。だが、ワシは妙に冷静じゃった。そして、『秀吉様、天下へのご運が開けましたな。』と静に申し上げた。その一言で秀吉様は落ち着きを取り戻され、『官兵衛よ、どうすれば良い?』とワシに問いかけられた。その瞬間に、秀吉様の信長公への感情のようなものは吹っ切れ、冷静にご自分の天下だけを見据えることが出来るようになられたのじゃ。それ以降の秀吉様は、皆の前で信長公の偉大さを口にすることはあってもそれは建前だけで、織田家とは別個の独立した大名としての道を歩まれるようになられた。ワシの吹き込んだ一言によってのう。」
(子)
「つまり、この長政を殺せと命じた信長公が憎くて、父上は秀吉様を信長公のしがらみから解き放たれたのですな。少し嬉しいですぞ。」
(父)
「いいや、全然。あの時地下牢に閉じ込められたワシを信長公が信じてくれなかったからじゃ。」
(子)
「しくしく。やっぱり、父上はご自分が一番なのですね。」
(父)
「それ位で泣くな!話を戻そうぞ。ワシは『一日でも早く明智光秀を討つと共に、信長公の葬儀を主催することが何より肝要。』と申し上げた。秀吉様の決心が固まれば後の段取りは早い。京都へ軍勢を返す為の物資確保や道のりの決定をワシが行い、全軍はわずか一週間程度で京都近くまでUターン出来たのじゃ。」
(子)
「その後は、謀反人ということで畿内に孤立した明智光秀、更に織田家後継者会議で孤立した織田家筆頭家老の柴田勝家を秀吉様が次々に倒し、その成功の陰には常に父上がおられたことは、この長政耳にタコが出来る程何回も聞いておりまする。」
(父)
「ところが、ところが・・・・じゃよ。ワシが本能寺の変の一件を聞いて冷静に『秀吉様、天下へのご運が開けましたな。』と申し上げたことから秀吉様にひどく警戒されるようになってしまったのじゃ。まあ、ワシが余りにも優秀過ぎて手に余ると思われたのかのう・・・・。」
(子)
「父上、自慢話をしながら暗くなるのは止めて下され。」
(父)
「ともかく、秀吉様にとって一番の功労者であるにもかかわらず、領地が豊前国(大分県)中津のたった十二万石であったとしても我慢しておったワシに、秀吉様がとどめの一言を仰ったのじゃ。『俺の死後、天下を獲るのは瘡頭の奴じゃ』と皆の前で仰ったそうな。しくしく。」
(子)
「瘡頭、つまり頭に皮膚病の痕がある者とは父上のことですな。つまり、黒田官兵衛は天下を狙っており信用できぬ、と。」
(父)
「酷い話じゃよ・・・・。しかも皆の前で、ワシがルックスで一番気にしている皮膚病の痕を指摘するなんて・・・・。それを人伝に聞いたワシは、脱サラ・・・・基い、長政に後を託して隠居することにし、名前も『黒田如水』と改めることにしたわけよ。」
(子)
「父上、サラリーマンは辛うございますな・・・・。」
【其の四 〜敵から貰った特別賞!〜】へ続く