九州国立博物館特別展「室町将軍~戦乱と美の足利十五代~」 三限目:足利義政と後継者問題に揺れる室町将軍

2019 年 8 月 19 日

(黒田官兵衛)

「九州国立博物館の特別展『室町将軍』の三限目じゃ。」

 

(黒田長政)

「初代将軍・足利尊氏以来、政治の安定を求めてきた室町将軍ですが、遂に現職の六代将軍・足利義教が暗殺されるという緊急事態が発生しました。キ~ンコ~ンカ~ンコン!」

 

※等持院所蔵の足利義勝木像※

(黒田官兵衛)

「父・義教の暗殺に伴い、七代・足利義勝はわずか8歳で七代将軍に就任した。」

(黒田長政)

「しかし、曽祖父の三代将軍・足利義満も同じ位の年齢で将軍に就任していますから、問題ございますまい。」

(黒田官兵衛)

「うむ。ところが、義勝は在任8カ月余りで病死。弟の義政が次の八代将軍となった。」

※等持院所蔵の足利義政木像※

(黒田長政)

「兄・義勝の死に伴い、将軍職に選出された足利義政ですが、幼い将軍が続いたことで、母の実家・日野氏、細川氏や畠山氏、山名氏といった有力大名が幕府政治に影響力を及ぼすことになり、義政が指導力を発揮することは困難でした。」

(黒田官兵衛)

「義政は当初、足利義教暗殺以降、失墜した幕府権威の再建を目指して御所の改築や名物の蒐集に努めたが、次第に政治家としてよりも文人としての立場が優先するようになっていき、最初の男子が早逝した後は、弟の足利義視に将軍職を譲ることを考えるようになった。」

(黒田長政)

「しかし、間もなく正妻の日野富子が男児(後の九代将軍・足利義尚)を出産。義政を挟んで弟・義視と、子・義尚との間で日野富子、管領・畠山政長、細川勝元、山名宗全、大内政弘といった有力者を巻き込んで、後継将軍問題は応仁の乱へと繋がっていきました。」

 

※等持院所蔵の足利義尚木像※

(黒田官兵衛)

「九代将軍・足利義尚は、足利義政にとって待望の男児として誕生。しかし、それに伴って発生したのは、叔父・足利義視との間での将軍後継問題であり、応仁の乱であった。10年に及ぶ戦いで京都は完全に荒廃。西軍の総帥・山名宗全と、東軍の総帥・細川勝元が相次いで亡くなり、応仁の乱は収束し、義尚が九代将軍に就任した。」

(黒田長政)

「一方、将軍職を譲った前将軍・足利義政は度重なる飢饉や一揆、戦乱を放置して自身の集大成である東山山荘(慈照寺銀閣)の造営に着手。しかし、足利義尚は、幕府に背いて領地の横領などを繰り返す近江の大名・六角氏討伐に自ら出陣。そのまま戦陣で亡くなりました。24歳の若さでした。早すぎる息子の死ですっかり力を落とした足利義政は、銀閣の完成を見届けることなくこの世を去りました。」

※東山山荘(慈照寺銀閣)※

(黒田官兵衛)

「十代将軍・足利義稙は応仁の乱で九代将軍・足利義尚と将軍の座を争った、足利義視の子じゃ。足利義尚の早逝で、足利義教=足利義政=足利義尚と続いてきた系統は絶え、十代将軍には足利義政の甥で、足利義尚の従弟である義稙が就任した。」

※等持院所蔵の足利義稙木像※

(黒田長政)

「しかし、義稙の立場は弱いもので、最有力の守護大名で管領の細川政元や、陰の実力者・日野富子(足利義政夫人)らには好まれず、遠征で京都を離れた間に十一代将軍として、従弟の足利義澄が就任してしまいました。」

※等持院所蔵の足利義澄木像※

(黒田官兵衛)

「十一代将軍となった足利義澄の父・足利政知は、八代将軍・足利義政の異母兄にあたり、足利義教の時代に滅ぼされた鎌倉公方・足利持氏の子・足利成氏(古河公方)に対抗して伊豆に進出し、堀越公方と称した。義澄は前将軍・足利義稙同様、九代将軍・義尚の従弟にあたることから、十一代将軍の座に就いた。」

※足利義稙VS足利義澄※

(黒田長政)

「ところが、日野富子が亡くなり、頼みの細川政元も暗殺されると、前将軍・義稙が西国の有力大名・大内義興らを率いて上京。十一代将軍・足利義澄は船岡山の合戦でこれを迎え撃ちますが、決戦の前に病死しました。義稙が将軍に復帰したものの、子供は無く、義澄の子、足利義晴・足利義維は義稙に保護され、以後の将軍は全て義澄の子や孫たちとなりました。」

(黒田官兵衛)

「将軍に復位した足利義稙であったが、将軍・義稙を凌ぐ力を持ち始めた管領・細川高国との間で対立が深まり、京都を追われ、勢力を盛り返せないまま亡くなった。」

(黒田長政)

「この時代になると、室町将軍は有力者に後援を受けて就任し、支援勢力を失えば京都を追われるという状態が日常になっていました。」

(黒田官兵衛)

「そして、時代は戦国乱世を迎えることになる。」

[続く]