九州国立博物館特別展「室町将軍~戦乱と美の足利十五代~」 四限目:足利義輝・足利義昭と戦国乱世の室町将軍

2019 年 8 月 20 日

(黒田官兵衛)

「九州国立博物館の特別展『室町将軍』の講義は今回で最終回じゃ。」

(黒田長政)

「八代将軍・足利義政以降、子の九代将軍・足利義尚とその従兄弟同士の間で将軍職を巡る対立が生まれ、足利幕府の権威は次第に低下していき、政争に敗れた将軍は京都を追われるという事態が常態化していきます。」

 

※等持院所蔵の足利義晴木像※

(黒田官兵衛)

「こうした状況の中、京都を追われた前将軍・足利義稙(十代将軍が再度復帰していた)に代わって十二代将軍に就任したのが足利義晴じゃ。義晴は十一代将軍・足利義澄の子として生まれたが、前将軍・足利義稙との決戦直前、父の義澄は死去し、義澄一党も戦いに敗れた。」

※足利義晴は身の危険を感じて度々近江へ逃れた※

(黒田長政)

「父・足利義澄の政敵だった十代将軍・足利義稙が一度は将軍に復位したものの、管領の細川高国と対立して追放され、細川高国が新たな将軍候補として目を付けたのが義晴でした。しかし、義晴の時代になると、将軍は有力者に後援を受けて就任し、支援勢力が敗れれば京都を追われるという状態が日常になっていました。京都周辺を押さえる有力者が細川高国→細川晴元→三好長慶と変わる度に近江(滋賀県)へ避難する人生であり、息子の足利義輝に将軍職を譲った後、亡くなりました。」

※等持院所蔵の足利義輝木像※

(黒田官兵衛)

「跡を継いだ十三代将軍・足利義輝は、当時近畿地方最大の実力者であった阿波出身の武将・三好長慶と対立し、父同様に度々近江などへと脱出していたが、後に長慶と和睦した。」

 

※足利義輝は「輝」の文字を上杉輝虎(上杉謙信)や伊達政宗の父・伊達輝宗に与えた※

(黒田長政)

「幕府内の実力者、三好長慶と和解したことで、義輝は一時的に安定した幕府体制を確立することが出来ました。この結果、権威の復興として各地の有力大名・毛利輝元・伊達輝宗らに自身の『輝』の字を与え、長尾景虎(後の上杉謙信)には関東管領就任を認め、後に上杉輝虎と名乗らせています。」

(黒田官兵衛)

「しかし、三好長慶の死後、三好一族の重臣である松永久秀や三好三人衆は義輝を危険視して館を襲撃。剣術の名手であった義輝は、畳に蒐集品の名刀を10本余り突きさし、刃がこぼれると、次の刀を取って寄せ手を次々に打ち倒して奮戦し、力尽きて討たれたという。」

 

※足利義栄※

(黒田長政)

「十三代将軍・足利義輝を暗殺した三好氏の重臣・松永久秀や三好三人衆は、義輝の実弟・足利義昭の命も狙いましたが、これには失敗。義昭は京都を脱出しました。」

(黒田官兵衛)

「京都を含めた近畿地方を経済力・軍事力で制圧した三好氏も、将軍の存在は必要であり、その為に十二代将軍・足利義晴の兄弟である足利義維・義栄父子をを本拠地・阿波から堺に招いた。この為、義栄は堺公方・阿波公方とも呼ばれた。」

 

※足利義栄を支えるはずだった三好三人衆と松永久秀が決裂し、戦闘で東大寺大仏殿も焼け落ちた※

(黒田長政)

「しかし、辛うじて京都を脱出し、全国の大名に加勢を求めていた前将軍の弟・足利義昭を報じて織田信長が上洛を開始。更に、三好三人衆と松永久秀が内紛から戦闘状態になっていたこともあり、三好長慶の跡を継いだ三好義継や三好三人衆は信長に悉く敗北。松永久秀も信長に投降し、支援者を失った義栄は間もなく亡くなりました。正式な室町将軍に含まない考え方も存在し、足利家の菩提寺である等持院には木像がありません。」

 

※等持院所蔵の足利義昭木像※

(黒田官兵衛)

「十五代将軍・足利義昭は最後の室町将軍じゃ。兄・義輝が暗殺されると、一旦京都を避難し、朝倉義景をはじめ、各地の有力大名に支援を求めた結果。織田信長公に奉じられ、京都に入り、十五代将軍に就任した。」

 

※京都を追われた足利義昭を庇護した毛利輝元※

(黒田長政)

「しかし、もはや将軍・足利義昭には政治的実権は無く、間もなく信長公と対立。本願寺顕如・武田信玄・朝倉義景・浅井長政・松永久秀・武田信玄らに呼びかけ、いわゆる信長包囲網を敷いたものの、肝心の武田信玄が三方ヶ原合戦後に死去。逆に苦境を脱した信長公によって京都を追放され、足利幕府十五代・240年の歴史に幕を閉じました。しかし、義昭は信長と戦っていた毛利輝元の庇護を受けました。」

※朝鮮半島出兵の拠点となった肥前名護屋城跡(佐賀県)と豊臣秀吉像※

(黒田官兵衛)

「本能寺の変で信長公が横死すると、新たに天下統一を進める豊臣秀吉様は、義昭と対面。前将軍として京都に戻ることが許され、一万石級の大名として、秀吉様の御伽衆(相談相手)になった。朝鮮出兵の際には秀吉様の求めに応じて肥前名護屋城に参陣したとされる。1597年、最後の室町将軍はこの世を去った。」

(黒田長政)

「鎌倉幕府滅亡の際には、執権・北条氏の一族郎党数百人が燃え盛る東勝寺で切腹したのに比べると、足利幕府の終幕は意外にも穏やかなものだったのですね。」

(黒田官兵衛)

「足利幕府は、鎌倉幕府が滅亡した後、言わば武士が引き続き我が国を治めていくことが決定的になった時、武士の連合体の盟主として出来た政権じゃ。それは、天皇家の血を引く貴人・源頼朝が御家人と『御恩と奉公』の形で結ばれた鎌倉幕府や、全国の約5分の1を治める徳川家康公が経済力と法令で統治した徳川幕府とはそもそも成り立ちが違う。室町将軍はあくまでも武士の盟主・調停者であり、その役割を終えた時に静かに消えていったとも云える。」

 

※等持院所蔵の歴代足利将軍木像※

(黒田長政)

「しかし、同時に室町時代には素晴らしい文化が発展しました。墨絵・能・連歌・茶の湯・作庭・・・・室町時代の素晴らしい文化については、是非九州国立博物館でじっくりご見学ください!」

[続く]