首里城復興を願って!世界遺産・琉球王国のグスク及び関連遺産群:勝連城 知勇兼備・阿麻和利VS忠臣・護佐丸

2020 年 6 月 5 日

(黒田長政)

「『世界遺産・琉球王国のグスク及び関連資産群』のグスク跡を巡る今回の旅。今回で4回目です。」

 

(黒田官兵衛)

「ということで、本日はどのグスクに行くのじゃ?」

※勝連城の案内※

(黒田長政)

「本日は沖縄県うるま市に来ています。うるま市の勝連城は、世界遺産となっているグスク群の一つで、築城年代が最も古いとされています。」

(黒田官兵衛)

「よし、今回も楽しみじゃ。」

※県道からも見える勝連城の頭頂部※

(黒田長政)

「標高100mを超える城の頭頂部は、石垣が遠くからも見える程です。」

(黒田官兵衛)

「確かに。福岡城の天守閣も負けてはならんぞ、長政よ!」

(黒田長政)

「父上、さすがに木造の天守閣で高さ100mではチト無理かと・・・・。」

※世界遺産・勝連城※

(黒田官兵衛)

「ムムッ。まあよい。で、いよいよ勝連城が見えてきたようじゃ。」

(黒田長政)

「勝連城は14世紀以降、代々の勝連按司(豪族)によって築城されたと考えられています。」

※菊池城跡(熊本県)※

(黒田官兵衛)

「14世紀というと、日本史の南北朝時代から室町時代前期。この時代の城というと、九州では菊池氏の菊池城(守山城)や、少弐氏の大宰府・有智山城などが知られておる。因みに、今、我等がいる場所はどこになるのじゃ?」

※勝連城入口(西原御門)※

(黒田長政)

「勝連城は、中間の内と呼ばれる平らな曲輪を取り囲むように南北に城塞が発しており、天険の要害となっていました。現在の勝連城の入口は、西原御門跡とされる側にあたり、右手(北西側で北城と呼ばれる)に三の郭、二の郭、一の郭(主郭)と並んでいます。また、西原御門と道路で結ばれた海側は南風原御門跡とされ、向かって左手には『東の郭』と称される高台があり、南城の遺構があるようですが、詳しいことは分かっていないようです。」

※勝連城の模型※

(黒田官兵衛)

「ということは、我等が今いるのは四の郭(中間の内)ということじゃな。」

※勝連城※

(黒田長政)

「さすがは父上!それでは早速あの階段を登って三の郭に向かいましょう!」

※中間の内から集落と貿易港があった南風原御門跡を望む※

(黒田官兵衛)

「ゲゲッ!」

※四の郭から見上げた勝連城の城壁(三の郭)と登城道※

(黒田長政)

「そこは大丈夫。脚の悪い父上には籠を呼んでおります故。」

※文章はフィクションで、現地には籠のサービスはありません(笑)※

(黒田官兵衛)

「(ホッ)・・・・。」

※四脚の城門跡※

(黒田長政)

「四の郭から、三の郭へと階段を登りきると、四脚の城門が建っていました。」

(黒田官兵衛)

「ということは、あのステージの様に見えるのが二の郭じゃのう。」

※三の郭から見た二の郭※

(黒田長政)

「おっしゃる通りです。早速参りましょう。」

※二の郭全景※

(黒田官兵衛)

「二の郭と三の郭の段差は、三の郭と四の郭程ではないので、ワシには助かるが・・・。おや、二の郭は何か色々とあるのう。」

※座石とウミチムン※

(黒田長政)

「はい。収穫祭で神人が腰かけたという座石に、こちらは火の神を祀った拝所、ウミチムンでございます。」

(黒田官兵衛)

「中城城もそうであったが、琉球のグスクは、あちこちに拝所や神事の場所が築かれており、自然の神々への強い崇敬が感じられるのう。」

※ウシヌシガマ※

(黒田長政)

「こちらはウシヌシガマ。非常時の隠れ家だったそうです。」

(黒田官兵衛)

「なるほど、城としてもよく考えておるのう。」

※二の郭から一の郭へと向かう階段※

(黒田長政)

「さあ、父上いよいよ次は一の郭。最後の階段でございますぞ。」

(黒田官兵衛)

「ゲゲッ!長政、至急籠じゃ!籠を回せ!」

※一の郭全景※

(黒田長政)

「父上、階段を登ってようやく、最高部の一の郭に着きましたぞ。」

※一の郭から望む太平洋と、うるま市※

(黒田官兵衛)

「オオ、眺めは最高じゃのう!」

※玉ノミウヂ御嶽※

(黒田長政)

「こちらは玉ノミウヂ御嶽。勝連城を守る守護神の拝所だったそうです。」

(黒田官兵衛)

「なるほど、ここが城の心臓部というわけじゃ。ところで、この勝連城の主、阿麻和利とはどのような人物じゃ?」

(黒田長政)

「はい。圧政を敷き酒に溺れていた九代目勝連按司・茂知附按司をクーデターで倒し、十代目勝連按司となったのが、最後の勝連城主、阿麻和利(あまわり)でした。地方按司(豪族)として海外貿易などを推し進めた阿麻和利の権勢は、琉球国王である尚氏と並ぶほどでした。第三代国王・尚泰久王は重臣・護佐丸(座喜味城主、後に中城城主)の娘を自身の后に迎え、長女の百度踏揚を阿麻和利に嫁がせて親子関係を結び、護佐丸・阿麻和利両者との姻戚関係を後ろ盾に、政治の安定を図ります。しかし、前回お話しした通り、1458年8月、阿麻和利が護佐丸に謀反の動きがあると尚泰久王に讒言。尚泰久王が阿麻和利を総大将に任じ、中城城を包囲して『忠誠の証として自害せよ』と迫ると、護佐丸は反撃せず、一族と共に命を絶ちました。」

※現在では郷土の英雄として称えられる阿麻和利※

(黒田官兵衛)

「琉球国王に並ぶ軍事力・経済力を持ち、ライバルの名将・護佐丸も屠ったとあれば、あとは全て阿麻和利の思うままではないか?」

※護佐丸を倒した阿麻和利は、次いで琉球国王の地位を欲した※

(黒田長政)

「全くその通りで。政敵であった護佐丸の死により、勝利を確信した阿麻和利は、首里の王宮を襲撃して自らが琉球国王になることを夢見ますが、阿麻和利の妻となっていた尚泰久国王の娘・百度踏揚は阿麻和利の叛意を首里に通報。国王の命で勝連城に押し寄せた王府の大軍と戦って阿麻和利は討たれたとも、城を落ち延びて生き延びたとも云います。いわゆる、護佐丸・阿麻和利の乱です。」

(黒田官兵衛)

「しかし、この護佐丸・阿麻和利の乱についてよく考えてどうも変じゃ。定番の護佐丸=忠義の家臣、阿麻和利=佞臣・逆臣という通説は、何かを隠すための様に思えてならぬ。」

(黒田長政)

「そうですな。結果的に、王朝にとって脅威であった阿麻和利と、重鎮の護佐丸の死で、国王・尚泰久国王の権勢は否が応でも高まったことでしょう。つまり、漁夫の利を得たのは国王を中心とする王府だったと云えます。」

(黒田官兵衛)

「しかし、その尚泰久国王でさえも最後の勝者だったとは云えぬ。」

(黒田長政)

「確かに。尚泰久国王は、護佐丸・阿麻和利の乱の2年後には亡くなり、跡を継いだ息子の尚徳王も更に9年後に29歳の若さで亡くなりました。さて、時計を少し戻して尚泰久国王がまだ王子であった時代、尚泰久は金丸という人物を登用しました。金丸は、農家の出身でしたが、行政官として優れ、尚泰久国王の側近となりました。尚徳王が亡くなると、琉球王国の重臣たちは、尚泰久国王・尚徳国王の一族(第一尚氏)を滅ぼし、金丸が群臣に押される形で尚円王と称し、新たな王朝・第二尚氏を建てました。これが明治まで続いた琉球王朝です。」

(黒田官兵衛)

「そう。つまり、護佐丸と阿麻和利を共倒れさせ、更には第一尚氏王朝の血を絶やして琉球を我が物とした最後の勝者とは、他ならぬ尚円王、こと金丸であり、護佐丸・阿麻和利の乱も金丸の策謀だったのではないか・・・・と、ワシは推理するぞ。」

(黒田長政)

「義父である護佐丸と、娘婿である阿麻和利を討ったことで、尚泰久国王の権勢は高まったかもしれませんが、逆に王朝の重臣(按司と呼ばれる豪族たち)の支持や信頼を失っていった可能性もありますし、琉球王朝の重臣たちが、第一尚氏の王族を滅ぼして尚円王を擁立したのも、自分たちの保身の為という想像ができますな・・・・?」

(黒田官兵衛)

「我らが生きた戦国の世には、そのようなことが無数にあった。琉球で無かったとは言い切れまい。全てはグスク(城)のみぞ知る・・・ということじゃな。」

 

[続く]